旅の相棒の話 富士フィルム X-T10編 補遺

あれだけ長々とカメラ談義を繰り広げてこれ以上何を話すつもりなんだと思うでしょう。

実はまだあったんですねこれが。何なら先の記事はこれを書くための布石みたいなもんです。

 

 

 

カメラの話というよりは写真の話です。

僕にとって写真を撮ることが単に記録する行為から、一つの作品を切り取る事に変わったのがいつからかはよく覚えていません。

まあでも大学に入ってからはそれがより一層強くなったのは間違いないと思います。

特に二年次に配属されたゼミの先生の影響はかなり大きかったですね。元々美術関係に携わっていた先生の独特な芸術家としての価値観は僕の写真という趣味を特別なものに変えてくれました。

 

この記事では先の記事で書けなかった僕のささやかな趣味である写真、ひいてはその価値観について書いていきます。

 

 

大学に入ってよくいろんな人から「君の写真は上手だね」「いいカメラを買えばそんな奇麗な写真が撮れるんだね!

なんて言われます。

 

全部違います。そうじゃないんだよなあ、と。内心では思っています。

f:id:tengaokamoto:20181115025154p:plain

まあ価値観の相違ってやつですね。僕の価値観ではそれは全く違うのです。

 

 

じゃあ何が違うんだよという訳で、それを説明するのがこの記事という訳です。

 

まずは君の写真は上手だねというこの言葉から。

僕自身謙遜でもなんでもなく、自分の写真の腕前は良くも悪くも普通だと思っています。というか写真の才能は別にないと思ってます。

ピントミスや大幅に露出がズレたりとかはないものの、ごく普通な構図でしか写真を撮れないあたり、想像力の面で言えば素人そのものです。

言ってしまえば教科書通りの事しかできないわけで、僕がおもう写真の才能はわざわざ旅に出かけなくとも普段通りの日常から決定的な、人の心を動かせるような一枚を写し取ることのできる人で、僕にはそれは到底できません。

もっと言えば動くことのない風景写真しか撮れない時点で才能はないんです。人物の心情まで移しこむようなポートレートや、一瞬のきらめきを写し取るスナップショット、こういうものは一切ムリなんです。

 

言ってしまえば僕の写真はすべてそこに映っている風景が奇麗なだけで、僕の写真の腕はほとんど写真の良し悪しに介在していないのです。

 

 

この辺の写真なんかはそれこそiPhoneを持って僕が撮影した同じ日、同じタイミングでシャッターを切れば全く同じ写真が誰でも撮れます。誰でもです。

誰でも撮れるような写真しか写せないんですね、結局のところ。

 

満点の星空や燃え盛るような夕焼けにしたって、それはカメラの機能的な問題で写せないだけで、僕と同じ様なカメラを使えば同じく誰でも撮れる写真なんです。

 

 

じゃあ次、いいカメラを買えばそんな奇麗な写真が撮れるんだね!

これです。これは何が違うのでしょうか。

 

例え話をします。

 

この写真は雨が降りしきる中原付で一晩中走って仮設トイレで雨宿りした挙句、朝三時から三脚を構えて二時間撮り続けてようやく撮れた一枚です。

 

これは気温3度の極寒の中テントが吹き飛ぶような強風の中で寒さに震えながら撮った写真

 

これは丸々一か月野宿して辿りついた北海道でわけのわからん海岸沿いを2時間歩き通して、落ちたら100%死ぬような崖をよじ登って撮った一枚です。

 

例え話をします。じゃあおんなじカメラをやるからこれと同じ写真を撮ってこいよと言われて撮りに行ける人がどれだけいるでしょう?

 

いいカメラは確かに撮影できるシーンの幅が増え、より美しい風景を残すことができます。ただそれはあくまでも撮りに行った場合であって、買ったところで家におきっぱなのであればそれは無用の長物にほかなりません。

 

さっき僕は自分には写真の才能がないと散々言いました。

でも誰も見たことのない景色を見るためなら、それを写真に残すためなら僕はできる限りのことはなんだってします。思った通りの天気じゃなければ何度でも繰り返し足を運んで自分の思った通りの景色を見に行きます。奇麗な景色を見て、写真に残すためならばどんな極寒の山奥でも、真夜中の土砂降りの中でも、だれもいない孤独なこの世の果てみたいな場所でも平気です。だって自分しか見られない、写せない景色があるんだから。今のカメラを買ったのもただ僕の見た景色を写すために必要だから買っただけです。決していいカメラだからとか高級だからとかそんな安っぽい理由ではありません。

 

 

僕には写真の才能はありません、少なくとも僕の価値観で言えばその場に居さえすればだれでも撮れるような写真ばかりです。

僕には写真の才能はありません、だからこそ奇麗な景色を見に行くためなら、それを写真に写すためならばどんな苦労も厭うことはありません。

ただ目の前の景色を写真に残せればそれでいいんです。もっと欲を言えばそれで自分の写真を見た人の心に何かしら残ればもう何も言うことはありません。

 

 

要するに僕にとっての写真は口下手な自分が言葉では伝えられない何かを伝えるものであり、自分の旅を通して見てきたものを誰かに伝える役割しかないんです。ただのコミュニケーションツールといえばそれまでの存在です。

 

そしてそのためなら文字通り命がけで写真を撮ります。

 

これが芸術家の先生から教えを受けてきた僕なりの写真に対する価値観です。

 まあ要するに才能がないなりに努力はしてるってことですね。

もう一つ付け加えるとしたら晴れ男という特殊効果も大いにあるとは思いますけど。

 

 

 

散々書き散らしてきましたが、今の相棒であるカメラが僕は大好きです。

防水でもないのに雨に打たれるわ、防寒でもないのにほぼ氷点下の場所で酷使されるわ、階段を転げ落ちるわ、おおよそ考えうる限りの過酷な使い方をしてきたのにまだしぶとく僕の見た景色を友人たちに伝えてくれます。

 

まあ強いて言えばこの相棒が役目を終えるその時まで、僕の見ている景色を写してやりたいですね。

 

 

せいぜい長生きしてくれることを祈るばかりです。